るのーぶろぐ

忘れられた頃に更新される雑文

積読の話

私にとって積読とは何か。読書にせよ積読にせよ、読書家各人に一家言あろうかという積読。それぞれ好きなようにすれば良いというスタンスは保ちつつ、自分の場合どうかなあ、という話。

もう何万何十万の人が一度は語った有り触れテーマです。しかし、私は生活や精神に余裕がないと積読すらできなくなるので、バロメータとして積読しようという側面があります。

ジャンルによる

小難しそうな本を買っては読まずに積んでおく。積読。ずっと「積読」だけ観てるとだんだん「槍槓」に見えてきます。見えない。
私も100冊のノンフィクションの文庫を買ったら50冊から70冊は積んで死蔵しますし、ハードカバーのフィクションだと半々くらい、文庫のフィクションだと4割位、ハードカバーのノンフィクションだと資料としてほぼ積みます。ジャンルによって実際に読む割合は当然変わりますね。

分野とレーベル

歴史と哲学の文庫、講談社学術文庫ちくま学芸文庫あたりが圧倒的に多いのですが、そこはやはりテーマや著者で選びます。なぜならこのあたりのレーベルに入っているタイトルは名著として10年やそれ以降のオーダーで生き残ってきた名著であるか、または歴史に名を刻むような「現代的古典」である割合がとても高いから。この傾向の書籍、よく「基本書」などという言い方で表現されます。私にとってどのあたりが基本書なのかというと、まず歴史。歴史の基本シリーズだと講談社の「日本の歴史」「興亡の世界史」「天皇の歴史」あたりが浮かびます。今でも毎月リリースされてますね。ちょっと前に「天皇の歴史」が全部で終わったあたりで、「興亡の世界史」はまだちょっと残っています。
それに付随して歴史関係のタイトルが毎月出ており、私は洋の東西を問わず歴史が好きなので、これらのシリーズが出ればマイナな地域のものでもとりあえず買っておきます。あと、哲学思想古典文学。現代思想だけではなく、中国古典(歴史資料も含む」の史書漢籍漢詩あたりも大好きで、池田知久訳『荘子』、下定・松原編『杜甫全詩訳注』あたりも。
現代思想だともう完全にネームバリューで選びます。ハンナ・アーレント、ちょっと読んでたらかっこいいと勘違いしてた左翼学生みたいじゃないですか、そういう青臭いの好きなので、右向きな割にはこちらの方面もちゃんと積みます。

かっこつけて自己満足する

実存主義哲学以降ポストモダンまではウィトゲンシュタインとかもう完璧に著者の名前がかっこいいかどうかで選んでますね。中身とかどうでもいい。マルグリット・ユルスナールとか。このジャンルは他の人が抑えてくれるでしょうから、私はヘーゲルとかもっと19世紀の古典みたいな基本中の基本が多いです。
一方で、中村元中沢新一、あと最近は古武術に行っちゃった街場の先生のレヴィナスやってたころの主著、そのあたりを入り口にしたので、今でも毎月のように中村元の仏教仏典の入門書、基本書、専門書問わず、目が行きます。中沢新一はオウムで叩かれてた頃は知らなかったんですが、そもそも本を主体的に読むようになったのが社会人になったここ20年近辺のことで、それまでは日本の古典や近現代小説、いわゆる昔ながらの岩波文庫の赤、新潮文庫の100冊(それも最近のように流行ものを集めたのではなく、教科書の文学史まんまのようなラインナップだった)を素直に読んでいましたから。

図書館を作る

ちょっと背伸びした本を買って積読本を増やしておく。ストレス等によって精神状態が悪化すると、活字を読めなくなる場合もありますし、私もそういう経験はしました。だから「読むのに無理してるなー」と感じたら、読むのをやめて積んでしまって良い。そもそも本って読み始めたら最後まで読まなきゃいけないものではないですから。自分には合わないなー、難しくて今の知識では読みこなせないなー、と思ったら1ページでも読むのをやめて積んでしまって良いんですから。読める時や必要な時が来たら、必要なところだけ読めばいいものですから。これって、図書館にある本を自由に読んだり、資料として使う時の使い方ではないでしょうか。積読とは、自分の本棚を図書館として充実させていく作業だったのです。私設図書館。なんて甘美な響き。読子ビルみたいだ。そんなわけで、私の買った講談社学術文庫は3割くらい、ちくま学芸文庫は7割くらいが、これからも図書館の本になり続けるのです。